ぼくはどちらかというと完璧主義のキライがありました。
「ありました」と書いたのは、最近はそうでもなくなってきたから。
何十年もかけて、ダサくて失敗して、ようやく気がついたことがあって。
それは「完璧はものすごく大変だ」ってこと。
100点満点の他にも、世の中はたくさんの道が伸びていて
それが90点なのかもしれないし、「評価の基準がまったく逆で0点がほんとの100点」とか「テストを受けないが実は正解」とか「はあ?!そんなのわかりっこねえよ」っていう理不尽も溢れかえってる。
別のルート、グレーゾーンの存在を認めて、受け入れる。
頭をやわらかくしていくことが、結局は完璧に近づくための第一歩なんです。
目次
見ている世界の狭さが「完璧」の幅を狭めている
たとえば、一昔前に「高収入、高身長、高学歴(だっけ?)」なんかがモテる3Kとか言われている時代がありました。
いまは令和の時代、終身雇用が崩れて、ゆとり世代は共感力を伸ばして、さとり世代は「ほどほどで満足」みたいな風潮ではあります。
昭和平成のように24時間戦う必要はない。
むしろ、「そんなに頑張って働いて何がほしいの?もっとチルくいこーよ」みたいな空気すら流れているように思います。
自分の感覚を大事にしてあげましょう。
ぼくは輝かしい履歴書も学歴も持ってない。
世間的な完璧からは程遠い存在です。
だから勉強するんだ。世間を、世界を見るんだ。
「世界を広くする」ことが選択肢を増やすためのエッセンスです。
情熱を持ち続けるシステムを作る
毎日毎日、遊ぶように働いています。
少しずつ少しずつ、自分が楽しいと思えるマネタイズを出来るようにしてきたからです。
自分が何を楽しく感じるのか、何に情熱を注げるのかをひたすら時間をかけて自問自答しながら試してきました。
ぼくは言葉を操るのが好きのようです。つたなくても、考えているのが楽しい。
穴ぼこだらけでも、戦略や作戦を考えるのが楽しい。
そういうのを磨くために、勉強や読書をするのも楽しいと思えるようになってきました。
それを可能にしているのは、情熱の発信源を見つけようとじーっと自分を観察してきたから。
自分の感情を観察するのは大事です。
何に喜び、怒り、悲しみ、楽しむのか。
情熱はどのあたりにいるのか。
自分を見る「眼」を持つ意識は、結構便利です。
悩みやコンプレックスは、克服するためのフラグというギフト
悩みとかコンプレックスって、誰しもが持っています。
自分の外見のことだったり、内面の性格だったりさまざまですが、
悩んでない人間なんて少数派ですよ。
ぼくも悩みがいっぱいです。
いつかハゲるかもしれないし、筋トレにはげんでみてもしぼみやすい痩せ型だし、コミュ障だし、会話苦手だし。わりと怒りっぽい正義マンちっくなところあるし。
けど最近思うんです。
悩みとかコンプレックスって、認めてゆるしたり克服するためのフラグです。
フラグを回収して解決する道のりを歩くことが出来るよっていうギフトなんじゃないかなって。
ハゲてもロン毛でもカッコいいやつになればいいし、
コミュ障なりに話しやすい人に出会えたらその人を大切にすればいいし。
ハゲ好きな人間がどこかにいるかもしれないし、
コミュニケーション能力が異常に高い人を見つけるすべをゲットすれば少なくとも意思伝達は出来るだろうし。
ぼくはする予定ないけどアートメイク(整形)もずいぶん気軽に出来る雰囲気に時代が変化してきているし。
いろんな道があって、どこを通るかを決めて進むかを考えるのも、考えようによっては楽しめます。
自分以外の人間ももちろん「完璧」なんかじゃない
とんでもなく美人な人でも、性格がアレな人とか、
頭でっかちなのに愛嬌があってめっちゃ人気があったり、
世の中にはいろんな人がいます。
隙がない完璧に見える人だって、実はコンプレックスを多く持っていたり私生活が微妙だったりします。
隣の芝生は青いってやつです。
自分と他人に区別した時に、他人のことがよく見えてしまうもんです。
そして、羨んだり妬ましく思ったりしてしまう。
その時点で「その感情を抱くのは、完璧か?」という問いが生まれてしまいます。
見ている景色や環境、性格が違ったら正解なんて千差万別だという事実も
視野が狭いと案外気づきにくいもの。
器と視野をでっかくしておくのは、気持ちの余白を作り出す意味でも有用です。結局ラク。
周囲の評価や同調圧力が気になるから意識的にはみ出す覚悟を持つ
自分の周りが優秀な人ばっかりだと、「自分なんて…」って落ち込むかもしれません。
自分が上位の人で周りより優れていたら、調子に乗ってしまうかもしれません。
ぼくはわりと後者でした。器用貧乏でわりとデキるやつだったから、カッコつけてサボって。
そして調子に乗ってデキると思い込んでいたらいつの間にかしょぼい人間に成り下がっていたように思います。
そう思ったから、ダサくてもきつくても自分を育て上げようと雑草魂を全開にして走り出して数年。
すり傷切り傷だらけでボロボロになりながらやっと本当の実力が身につきつつあります。
輝かしい学歴もない。経歴もない。
だけど、けもの道を突き進んできた実績があります。
人のがんばりって、他人はあまり気にとめていません。
ぼくが泥にまみれようが成功しようが失敗しようが、
結局は対岸の火事みたいなもんです。
それに気づいてからは、周囲の空気からガンガンはみだして、疲れて寝落ちするくらい自分に厳しくして日々をつないできました。
自分が納得出来る結果に向かって。
他人は見ていなくても、自分自身は自分を見ているから。
まとめ、自分の「完璧」は自分が決めないと完璧にならない
完璧を目指すなら、自分の未熟さ、不安定さを見つめて認めて、周囲の空気以上に自分の感情に気にかけてあげるべきだ
という話でした。
だって「完璧」を感じるのは自分自身だから。
他人から見て完璧でも自分が納得していないとそれは完璧ではないんです。
ぼくは「いまこそ人生単位で頑張りどころだ」と思っています。
自分の感覚を信じて、ゴリゴリに働きまくっています。
みんながマラソンしている横をロードバイクでガチこぎしてブチ抜いていくような生活。
楽しいです。
いま完璧じゃなくてもいい。
時代にフィットしていなくてもいい。
不完全で、バランス取らないと不安定でもいい。
こけてもいい。何度でも泥だらけで立ち上がる。
自分の感覚が「完璧」だと思っている方角へめいっぱい進むことが出来る。
いつか振り返ってみると彩り豊かな不完全にまみれた人生。
それがぼくの目指している完璧なんです。